アルファベットは下記に記述してある散策コース図での場所を表します |
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A.赤城神社
流山のまちは江戸川に面した低地上に 開けた。その低地に椀をふせたような海抜15メートルの小山がある。これが赤城山であり、山頂に赤城神社が祀られている。伝説によると、「そのむかし大洪水によって上州赤城山の崩れた土塊が流れついたのがこの小山であり、“山が流れてきた”から“流山”という地名がついた」となっている。
江戸時代に創建。祭神は、大己貴命を(おおなむちのみこと)祀っている。敷地690坪の境内には、本殿(銅板葺流造)、拝殿(瓦葺)、社務所(瓦葺)が建ち並ぶ。また、波切不動尊や一茶の句碑、流山橋架設記念碑などがある。10月に行われる流山市指定無形民俗文化財の「大注連(しめ)縄行事」は有名。例祭共々多くの参拝客や見物客が訪れ賑わいます。
周辺には、赤城山公園、光明院、流山寺、長流寺、一茶双樹記念館、寺田稲荷などがある。
私の家族は毎年元旦に参拝して家内安全と交通安全の破魔矢とお守りをいただいております。またお神酒と甘酒をいただいています。
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入口にある大しめ縄 |
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拝殿 |
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大しめ縄つくり
奥さん方や子供たちが手伝って
います
(平成25年10月13日撮影)
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しめ縄製作中 |
一本出来上がり |
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しめ縄の取り付け作業 |
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元日には参拝者で賑わいます
(平成26年元旦) |
今年も初詣に来ました
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拝殿
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愛犬も初詣です
(平成26年元旦)
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厄除、家内安全、交通安全などを
求める人で賑わっています
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お神酒をいただいて今年も元気!
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B.利根運河
利根川と江戸川を結ぶ利根運河は1890年(明治23年)年に東北からの物資を船で東京へ早く安全に運ぶ目的で民間資本で開削し、最盛期には高瀬船や外輪蒸気船が1日100艘ほど運航していました。やがて鉄道や自動車の時代になって、昭和17年には国に買収されました。休日には多くの親子連れで賑わい、市民の憩いの場所となっている。 |
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C.浅間神社
江戸時代初期の創建。 社殿の裏には市指定文化財の富士塚がある。ここを登ると実際の富士山に登ったのと同じご利益がある、とされている。ここの頂上はあたり一帯が見渡せるポイントなのだが今は住宅地で遠くは見えない。
幕末に新政府軍が境内裏に仮本陣を敷いて錦の御旗を立てて新選組を包囲した場所である。新選組はまさか新政府軍が北から進入してくるとは思ってもいなかったのだろう。、
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富士塚 |
頂上に建てられた碑 |
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D.常与寺
鎌倉時代の創建、日蓮宗寺院。
流山に印旛県庁が置かれていた明治5年(1872年)9月に教員養成のための印旛官員共立学舎(後の千葉師範学校=現千葉大学教育学部)の設置と県内最初となる流山小学校が設置された。敷地内には千葉師範学校発祥の地の碑が設置されている。
明治6年6月15日千葉県が誕生すると県庁は千葉町に移り、千葉師範学校となり、現千葉大学教育学部の前身となった。
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拝殿 |
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千葉師範学校発祥の地の碑 |
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E.近藤勇陣屋跡
板垣退助が参謀をつとめる官軍を甲府で迎え撃つため近藤勇は甲陽鎮撫隊を結成したが甲州勝沼で衝突、敗走し陣を立て直すため流山に移動した。
流山では醸造家長岡屋を本陣として光明院、流山寺などに分宿していたが、情報を得た新政府の先鋒隊に包囲されてしまう。
近藤勇は、大久保大和と名乗り、流山に駐留している理由を釈明するために出頭したが板橋本陣へ行く途中で新選組の近藤勇であることが露見し、板橋にて処刑された。近藤勇は流山市内を戦火に巻き込まないために出頭したとも言われている。この地は近藤勇と土方歳三の最後の別れの地となった。
動画
「新選組最後の本陣」
(「NHK映像マップみちしる」より)
現在、放映していません
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新選組流山本陣跡 北総新選組の皆さんと |
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近藤 勇になった気分
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F.閻魔堂
閻魔堂は、その名の通り、閻魔大王を祀り、安永5年(1776年)の座像が安置されている。境内には、如意輪観音や宝篋印塔などの石造物があり、また、義賊金子市之丞(かねこいちのじょう)と遊女三千歳(みちとせ)の墓がある。昔からこの墓に詣でると、頭の病気が治るとか犯罪者の刑が軽くなるなどと言われている。
金子市之丞とは?
江戸時代、流山の金子屋という醸造業の裕福な家庭の息子として生まれた市之丞は何不自由することなく育ちました。しかし、市之丞が7~8歳の頃に父親が事業に失敗しそれがもとで亡くなってしまいました。一転貧乏生活を強いられた市之丞は、それに耐えられず悪の道に走ってしまい、さらには盗賊になってしまいました。しかし、金持ちばかりを狙い、そのうえ奪った金品を地元の貧しい人々にばらまいたことから陰では『ビン小僧市之丞様』と、ありがたがられました。やがて、役人に捕らえられ、処刑されてしまいましたが、地元の人が首をそっと引き取り閻魔堂の脇に葬りました。明治になって講談や歌舞伎に取り上げられ大変な評判となりました。後にかの有名なねずみ小僧次郎吉もその義行をまねたと言われています。 |
閻魔堂入口 |
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閻魔大王像 |
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金子市之丞 の墓
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新選組の衣装を着て素晴らしい
演武をする北総新選組の副隊長
さん 演 武
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北総新選組
2004年から新選組本陣跡の隣にある閻魔堂において観光案内ボランティアをしている。毎年3月~11月の晴れた土、
日曜、祭日に新選組史跡や市内の案内の活動や演武の稽古および披露をしている。たくさんの方に流山市や新選組につ
いて知ってもらいたいと熱心である。 皆さん大変礼儀正しい人ばかりである。 |
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G.長流寺
長流寺は、江戸時代の創建といわれる浄土宗の寺院です。境内には江戸時代の中期前に制作され観音堂があります。千手観音坐像・本尊阿弥陀如来坐像が安置されています。慶長12年(1607年)に建立された馬頭観音の石造物があります。また、流山七福神の恵比寿(福寿無量)を祀り札所としても知られています。
毎年4月には近藤勇、土方歳三の子孫が参加する「勇忌」がここで行われます。
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H.一茶双樹記念館
俳人小林一茶とみりん醸造創設者の一人と言われる五代目秋元三左衛門(俳号双樹)は交友があり、一茶はこの地を15年間訪れています。安政年間(19世紀中頃)のみりん工場内にあった住まいの建物を昭和10年代に曳き家したが、古くなったため平成3年に解体復元し、平成7年に双樹亭及び往時を偲ばせる主庭を中心に、商家を再現し、みりん関係資料などを展示する秋元本家、茶会・句会等に利用できる双樹庵および一茶庵が誕生した。
木造平屋建,寄棟造瓦葺きの「新座敷」と呼ばれる建物で江戸時代末期の商家建築の様式を伝える文化史上極めて貴重な遺構である。
「天晴」は鳥羽伏見の戦いで征討大将軍に任じられた小松宮彰仁親王が秋元家に訪れた時の直筆のものである。
(本物は市の博物館に保存してある)
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枯山水の庭を見ながら一休み
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双樹亭の奥の間 |
当時の資料を展示している |
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Ⅰ.光明院
光明院は、創建は不詳。本尊は不動尊。江戸時代の石造物のある真言宗豊山派の寺院です。明治初期までは赤城神社の別当祈願所でした。赤城山神楽寺が寺号です。
境内には、市指定有形文化財の菩薩形坐像、庚申塔や享保7年(1722年)建立の六地蔵があります。また、秋元家の5代目で、味醂醸造創業者の秋元三左衛門氏(葛飾派で俳人で号は双樹)の墓があり、昭和53年(1978)に建てられた高さ2mの双樹と一茶の連句碑がある。
万上味淋の開発者である堀切家のお墓もある。 慶応4年4月新選組が分宿したお寺である
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左側の墓石が双樹の墓
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J.流山寺 りゅうざんじ
江戸時代初期に創建され昭和40年に火災で再建された曹洞宗の寺院。
流山七福神の大黒天像がある。
江戸時代の俳人、大川斗囿の句碑もある
慶応4年4月新選組が分宿したお寺である。
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3.流山本町界隈.
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江戸川沿いに位置する流山の街は、江戸時代から明治・大正にかけて商業の中心として栄えていました。
今も明治時代前後の土蔵造りの家屋と百数十年の歴史ある老舗が点在し当時の面影を忍ばせています。
老舗の呉服店や製菓店、古い建物を利用した飲食店、芸術文化ギャラリーなど見て食べて楽しむぶらり散策コースーです。
本町界隈は現在の流山1~8丁目と加5~6丁目のエリアである。
このような散策コースが自宅からこんな近くにあるとは知りませんでした。
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右図の丸数字で示す名称(①~⑦)等を
クリックすると説明文が表示されます。
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流山市観光協会資料より |
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①あかり館 「彩」 いろどり
このお店は最近当地に構えたもので本社が岐阜県にある。1300年の歴史を誇る伝統工芸,美濃和紙の紙すき技術を受け継いだ繊細できめ細やかな和紙を使い手作りで照明を作っている。現代の住宅にマッチするような照明をより多くの方へ届けたい、そして美濃和紙という素晴らしい紙を絶やすことなく後世に伝えることが使命だとのこと。
築後80年の乾物商だった建物を改築し平成25年7月にオープンした。美濃和紙の魅力を生かした照明や小物を販売している。手すき技術が世界無形文化遺産に登録された。(平成26年11月)。 |
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現代アート的な作品
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優しく落ち着く照明 |
柔かな照明 |
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②ましや呉服店舗
「安政の大獄」、「横浜港開港」と日本が激動していた幕末・安政6年(1859年)、当地に呉服太物商「増屋」を創業し、以来、江戸・明治・大正・昭和・平成と各時代に流山の近郷近在のみならず大勢の得意先に支えられ、特に紬織物に関しては専門店ならではの品揃えを心がけており、希少品も多く取り揃えている。
呉服、和装品、和雑貨などを取り扱っている。
土蔵は市指定有形文化財である
千葉のローカル線・流鉄流山線に乗って旅する特集でテレビ東京で紹介された |
土蔵は明治3年に建てられ、本町界隈
で現存する最古のひとつ
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由来が書かれた立札
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③呉服新川屋店舗
創業は幕末の弘化3年(1846年)で、江戸日本橋の新川で酒などを扱う商店として創業し、3代目が流山に来て呉服商を
構え今日に至っている老舗である。
建物は明治23年(1890年)に建てたもので1階が店舗で2階が住居となっている「見世蔵」形式である。土蔵造り2階建ての正面は漆喰作りで、屋根の北側に恵比寿様、南側に大黒様の鬼瓦が備えられ、商売繁盛を祈願している。
平成16年11月8日付けで国登録有形文化財に指定された。 |
「見世蔵」形式の新川屋店舗
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新川屋の由来が書いてある
左上は「恵比寿様」、左下は「大黒様」 の鬼瓦の写真
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④蔵日和 (切り絵ギャラリー)
大正期の診療所を改修した建物で、最初はベーカリーカフェであったが、現在、切り絵ギャラリーとなっている。
「一茶双樹記念館」や「見世蔵」を描いた切り絵、また、行灯設置場所が一目でわかる「行灯あちこち案内図」、制作過程がわかる行灯の骨組みなど、展示している。パンは隣の「丁字屋」で販売している。
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切り絵の行灯(家庭用)を展示して
いる |
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飯田信義氏の切り絵作品の展示
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コーヒーを飲んで切り絵を楽しみました
(現在、カフェはやっていません) |
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切り絵行灯
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⑤丁字屋
歴史ある、ここ流山本町の中でも、重厚感のある佇まいが印象的な大正12年築の町屋造りのこちらの建物はもともとは足袋屋でした。その屋号の「丁字屋」を頂いて、イタリアンレストランとして生まれ変わった。外観も店内も、昔の建物の風情をなるべく残しており、歴史的な建造物としての情緒も感じられる。
自家製生パスタや窯焼きピッツァ、パティシエ自慢の創作スイーツ。ワインも豊富に取り揃え、夜はしっとりとした雰囲気の和の空間でゆっくりと食事が楽しめる。 |
右端にイタリア国旗が掲げてある
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⑥清水屋
清水屋は明治35年創業で創業115年の老舗和菓子店です。流山本町散策の際のお土産にぴったりの品々が揃っており、「陣屋モナカ」や「一茶の宿」が好評です。
故地井武男さん出演のテレビ朝日系列「ちい散歩」でも紹介された。
平成26年、『国登録有形文化財(建造物)』に登録された。
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⑦見世蔵
寺田園茶舗「見世蔵」では、流山市在住で、世界的に活躍している万華鏡作家・中里保子さんをはじめ、多くの作家の方々の万華鏡作品を展示・販売している。
3周年記念展として、記念日に贈る万華鏡の展示やペンダント型、外観も美しいスタンド型、またスマートフォン型のようなものなど、個性的な作品ばかりです。
このお店は江戸から明治期にかけ、店舗兼住居として建てられた 土蔵(見世蔵)を利用している。
平成23年、『国登録有形文化財(建造物)』に登録された。
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「見世蔵」形式の店舗
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個性的な万華鏡がズラリと並んでいる
幻想的な世界へ引き込まれそうだ
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子供の頃の見た万華鏡とは違った世界
が見える現代万華鏡がいっぱい |
こんなに美しい世界が見られます
(ポストカードより) |
万華鏡の世界に入ってしまった私
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4.みりん工場について
かつて流山市には二つの味醂工場があり、「天晴みりん」と「万上みりん」であり共に江戸時代からの創業で、時代の流れととも
に「天晴みりん」が平成19年に工場を閉鎖してしまいました。
みりんは、原料の蒸したもち米と米麹を焼酎とともに仕込み、ゆっくり時間をかけ熟成させ、搾って濾過させることにより生まれます。流山は、古くから米の集散地で、酒造技術があり、江戸川の水運により大消費地江戸と結ばれていたことから、みりんづくりに最適の地でした。 醬油における「野田」のようにみりんといえば「流山」と想起するほど有名だ。
白みりんは最初は飲むものでしたが次第に調理用として利用されるようになっていきました。 |
「天晴みりん」
一茶双樹記念館の元の所有者である秋元家は、江戸時代中期(天明年間)に4代目秋元三左衛門が味醂醸造を始めたことにはじまりますが、5代目三左衛門は、もち米、米麹の他に焼酎を加える醸造方法を開発しました
この時期、流山では「天晴」ブランドの秋元家と、「万上」ブランドの堀切家が共に味醂で繁盛していました。小林一茶と交流のあった5代目三左衛門は秋元家が大きくなる上昇期に位置し、味醂醸造を始めた当主が俳句という文芸に手を染めることができたことは、秋元家の経営が確立していたことを窺わせています。
何らかの理由で、昭和16年には事業を他の会社に譲らざるを得なくなりました。秋元家では離れと中庭を自宅として使用するために残し、それ以外の敷地や設備を「帝国清酒」に貸しましたが、「帝国清酒」は戦後解散し、「東邦酒類」に売却され、さらに「東邦酒類」が会社を解散すると「三楽オーシャン」に売却されました。「メルシャン流山工場」としてワインを製造していましたが、平成19年(2007年)3月31日
流山工場を閉鎖解体し、その跡地にケーズデンキが進出し、現在に至っています。 |
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メルシャン流山工場の跡地に
ケーズデンキが進出
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秋元家の分家が経営している酒店 |
近藤勇のラベルを貼った焼酎(右)
と純米吟醸酒(左)を買ってきました |
「万上みりん」
万上みりんは、江戸時代中期に相模屋の堀切紋次郎が開発した白みりんです。万上みりんは、現在も厳選された原料を伝統的な醸造法により熟成させ造られています。文化11年(1814年)に流山白味醂として発表されました。白みりんは江戸から関東一円にまで広がりました。
明治10年に宮内省御用達となり、この上ない栄誉を授かった紋次郎は
「おもいきや、醸す味醂をかくまでに、かしこき方にめさるべしとは」
と詠みました
そして、万上味醂株式会社は大正14年(1925年)にキッコーマンと合併し (流山キッコーマン(株))、今日に至っています
現在は調理用としての味醂をこの工場で造っています。「万上本みりん」は市のふるさと産品に指定されています。
二代目紋次郎が詠んだ歌から「万上」の商標ができました。
「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味醂醸す相模屋」
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県道流山街道からキッコーマン工場
正門を臨む |
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江戸川の堤防より工場を臨む |
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万上本みりん |
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「流山白みりん200年祭」 |
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今年(平成26年)は流山で白みりんが誕生してちょうど200年になります。
万上みりん工場は江戸時代からの創業で約250年間続いております。白みりん誕生200年を記念して流山キッコーマン株式会
社が中心となり「流山白みりん200年祭」が10月13日に開催されました。この200年祭を記念して工場の塀に「まちなかミュー
ジアム」が作られました。
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「流山白みりん200年祭」の様子 |
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少しばかりの雨が降りましたが
大盛況でした
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「流山白みりん200年祭」限定の「飲
む白みりん」を販売
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明治35年創業の老舗清水屋さんが
和菓子を販売
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「流山史跡ガイドの会」発足以来
ちょうど2万名のお客さんへの表彰状 と記念品を授与 |
「ろこどる」のグッズが大繁盛
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白みりん誕生200年を記念して
「まちなかミュージアム」を掲示
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白みりんを開発した2代目堀切
紋次郎夫妻
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みりん工場の銅版画
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歌川広重の「高輪二十六夜待遊興の図」
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「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味醂
醸す相模屋」と二代目紋次郎が詠んだ
歌から「万上」の商標ができた
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工場内への引き込み線
みりんは流山駅から常磐線馬橋駅
経由で東京方面へ運ばれた
昭和4年頃の写真 |
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